「少年カフカ」より抜粋

気にとまったので。

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Mail no.748
言葉が失われるところ

読者

22歳の大学生です。村上さんの作品は僕が高校と時からよく拝見しています。ちょうど思春期の終りごろですかね。・・・こんなことを書くと随分自分は年をとったように思えます。

『海辺のカフカ』読みました。久しぶりに震えました。どこがどうかとは一言で言えないのですが、人物一人一人が明確にイメージできて、それが物語に厚みをつけているように思いました。上手くは言えないのですが・・・。

僕は最近『言葉』についてよく考えます。以前親友のガールフレンドが亡くなって、その葬式に出席したときに、僕はその友人にただの一言も言葉をかけてやれませんでした。僕はそれまで言葉には人の悲しみや寂しさを癒すだけの力があると思い込んでいました。でも、その葬式に出てからは僕は言葉って本当は無力なんだと、ってことを身にしみて感じました。

以前村上さんの作品で(『ノルウェイの森』だったかな?)「言葉という不完全ないれものに入れることのできるのは結局不完全な自称だけだ」という表現があったと思うのですが、僕は今ではそう思えます。だからこそ言葉に意味があるのではないでしょうか?言葉は不完全さという前提を含んでいるからこそ、それを選び取る意味があるし、伝えるべき意味があるのだと思います。だって完全な言葉なんてあったら誰も悩んだり、迷ったり、感動したりしないのではないかと思います。数学のややこしい定義式みたいな「これが正しいのだ!」的な見方しかできないでしょう。芸術だって不完全さをそこに含みつつ、それを何とか覆そうと葛藤する人の努力があるからこそ人を感動させる力を持つのですね?僕はそう思います。

僕がその葬式で友人に何も言葉をかけてやれなかったことは、今にして思えば当然なことなのかもしれません。友人で感じたであろう本当の悲しみを癒すだけの力を持つ言葉なんてあってはいけないはずです。そしてその悲しみは亡くなった彼女に対するある種の礼儀なんだって、そう思います。

僕は言葉に対してまだ未熟です。でもいつか村上さんみたいに素敵な言葉でものごとを語れる人間になればいいな、と思います。




村上

そうですね。本当に大事な時には、言葉って出てこないものです。よくわかります。本当に言いたいことというのは、言葉で表現できないものです。だから僕はこうして「物語」を書いてるわけです。僕が本当に言いたいことというのは、物語というかたちでしか表出できないんです。そこには正解というものはありません。

オウム真理教の信者さんを何人かインタビューしたとき、「ああ、この人たちは真剣に正解を追い求めている人たちなんだな」と実感しました。だからそれがぐるの指導者によってぽんぽんと与えられると(あるいは与えられたように思っていると)、そこにはまってしまう。するとあとは正解のことしか、考えられなくなってしまう。正解としか関わりあえなくなってしまう。正解がみつからないと、「自分の努力が足りないんだ」と思う。彼らが正解と関わるために払っている日々の努力と、その基本的な誠実さには実に感服してしまうわけですが。

でも、僕もあなたも、正解のある世界には住んでいないので、別の方法を考えなくてはならない。どうすれば自分の気持を、悲しみに沈んでいる友人に伝えることができるのかを、懸命に自分で考えなくてはならない。その前にあなたはまず、自分の気持を本当の意味で知らなくてはならない。そのためにはあなたは自分の心の中に降りていかなくてはならない。そしてそこであなたはたぶん、自分自身の物語を(あるいはその一部を)発見することになる。

物語は、言葉が失われてしまったところから動き始めます。それは人々の心の「共感装置」なんです。そしてそれはただ与えられるものではなく、そこにあなた自身の探求が必要とされます。僕が書きたいのは、そういう小説です。